それは、振り下ろした拳にぐにゃりとした感触だけを残して、目の前から霧散して消えてしまった。
一体どんな嫌がらせだ、と甚爾はひとつ舌を打つ。掌中にあるのは小ぶりな刀が一本。常日頃から共にいる武器庫の呪霊は、今回の相手と相性が悪く、腹の中に納めたままだ。
苛立ちに任せて柄を強く握りしめると、美しく巻かれた糸の内側で、硬い木材が軋む感触がした。借り受けたこの呪具の所有者は五条悟だ。腹いせにぶっ壊してしまってもいいかもしれない。
切ってもちぎっても殴って散らしても、数秒と経たずに元のいびつな形状へ再生されていく。その様子は、何年も前に子供に作らされたスライムを彷彿とさせた。甚爾が今対峙しているこのスライムは、呪霊の分体だった。本体が祓われない限り、真に消えることは無い。
一通りの攻撃を試したところで、甚爾は一歩距離をとった。腰を落とし、地面に擦れる寸前まで切っ先を落とす。刃は上に向け、半身で刀を構えた。長物のリーチで届く範囲ギリギリまで後退し、相手の動きに意識を集中させる。
このまま自分に向かってくるのならば任務は続行、本体の方へと退いていくようであれば、放って高みの見物でもしていればいい。甚爾の希望は当然後者だが、現実はそう甘くもないことをよく知っている。
空間の中心で縮こまっていた粘体が、破裂するように甚爾の方へと広がった。構えた刀をそのまま振り上げて両断し、開いた隙間から外側へとまろび出る。受身を取った肩と背に、べちゃりと粘液が張り付いて、顔をしかめた。
「ああくそ、めんどくせえな」
ぬるついて繊維に染み込むそれを、完全に引き剥がすのは難しいだろう。この上着もどうせ五条の住居から勝手に拝借してきたものなのだ。脱ぎ捨てて、やつのえさとしてくれてやろうかと、甚爾は一瞬意識を逸らした。
その瞬間、足元がぬかるみ、分体の一部が裾から衣服の内部へと侵入した。何かを辿るように這い上がってくる感触に短く声を上げ、甚爾は慌てて足を引く。接地面からは容易くちぎれたが、肌を這う欠片は散るどころか動きを止めすらしなかった。
足首からふくらはぎ、内腿へと蠢くその経路は、甚爾の記憶に新しい。
「……あんのクソガキ」
帰ったらマジで殺す、と物騒な言葉を吐き捨てて、甚爾はぐるりと踵を返した。
廃ビルの狭い一室で、出入口はひとつしかない。とにかくこの場を離れて、ちぎれたスライムもどきのコントールを失わせなければならない。
しかし、蝶番が外れかけて曲がった鉄扉まで後一歩のところで、廊下に繋がる出入口は粘体に隙間なく塞がれた。
(こんな、早くなかっただろうが……!)
反射神経は甚爾の方が上だったはずだ。事前に確かめた資料にもその記載はあった。実際これまでの戦闘でも、今この瞬間まで追いつかれた試しはなかったというのに。
片脚に貼り付いた異物はモゾモゾと気色の悪い感触を伝えて、甚爾の気を散らしていく。それでもまだ、退路を塞ぐかたまりを斬りつけるだけの余裕はあった。甚爾は両手で刀を構え、今度は上から真っ直ぐに振り下ろす。
狙ったとおりに切っ先は沈み、そして。
「……クソッ」
沈んだ刃先が、壁となった呪霊の分体に、ずぶずぶと呑み込まれていく。押しても引いてもこちらの意思など関係なしに、どこへ繋がっているのかも定かではないその内側へとゆっくりと、しかし確実に吸い込まれていく。
このまま腕まで持っていかれることだけは、絶対に避けなければならない。刀身を半分ほどを呑まれた刀を諦めて、甚爾は柄から手を離した。
相手の速度と質量が格段に増した原因に察しはついている。けれど、強化の度合いが想定の範囲外だ。
あらかた武器を呑み込んだ壁面が不自然に盛り上がり、細長い触手を形成していく。眼前に迫るそれを、避けきる術が見つからない。足元も、恐らく背後でも同じように蠢いているのだろう。甚爾は一つ舌を打って、唇を引き結んだ。この呪霊の性質上、自分の命が奪われる可能性は恐らくない。懸念すべきは腹の中にあるものだけだ。
身を縮めて蹲り、袖や襟元へ向かって伸びてくる触手から少しでも離れて時間を稼ぐ。既に肌に触れた小さな粘体は、足の付け根の危うい部分を這いずっている。他の触手が狙いを定めている箇所も、きっとこの欠片と同じだろう。甚爾の肌にまとわりついた、五条悟の残穢という餌だ。
「呪力を養分にしてるってんなら、俺はなんの役にも立たねえだろうが」
次の任務手伝ってよ、と気楽に口にした五条の話を、甚爾はとりあえず最後まで聞いてやった。その上で出たのがその言葉だ。
隠密型の、少々厄介な呪霊だというそれは、気配を消した本体と、捕食の役割を持った分体で構成されている。核とする本体は隠れたまま、分体で呪力のあるものを喰らい、自分の呪力として消化していくらしい。対象は、呪物から術師まで何も問わない。つまりは生物ですらなくてもいいのだという。呪具はがらくたになり、呪物は融合し、そして生き物は、数日足らずで死に至る。
これまでに、三人ほどの呪術師が呑まれて消えてしまっているのだという。叩くのならば呪力が切れてかけている今、向かわせるなら生半可な術師ではなくいっそ五条悟に、と言うのが上がくだした判断だ。
「だからこそでしょ。本人に呪力が欠片もなければ、給餌の量を調整できるしね」
甚爾の手にタブレットを押し付けて、五条は目元を覆う布を外した。ご丁寧に、画面には任務の詳細資料が表示されている。
現場は開発途中で投げ出された敷地の一角にある、崩れそうな廃ビルだった。閉鎖されて以降しばらくは犯罪の温床にもなっていたようだが、この数年は近辺での行方不明者が年に数名出るに留まっている。つまり、呪霊の発生はその頃なのだろう。
「住処ごと吹っ飛ばしちまえばいいだろ」
もう滅多に人が近寄らないような場所なのだ。多少の荒事も許されるのではないかと投げやりに提案しながら、甚爾は資料のページを繰った。
祓いに行って、命からがら逃げ延びた呪術師の描いた面相は、国産ゲームのマスコットキャラクターそのものだった。スタート地点の城の近くで、真っ先に相対することになるしずく型の青いアイツだ。もう一枚ページをめくると、今度はやたらと逃げ足の早い、はぐれの方が描かれていた。
なんとなく腹が立って、甚爾はタブレットをソファの座面へと投げ捨てる。床に叩きつけなかっただけ褒めてもらいたいくらいだ。
なんてことはない、分体は粘体であるという以外の情報がまるでなかった。そして、呪力を喰らって強化する。術者の実力次第ではあるが、そこから逃げ出すことは不可能ではない。それだけだ。肝心の、本体がどこに潜んでいるのかを突き止めた報告はどこにもなかった。
「でも本体は見えないって言うしさ、万が一にでも僕が食べられちゃったら大変でしょ?」
「有り得ねえ万が一を提唱すんなよ。最強サマがよ」
ただの呪術師には見えないものでも、この男の持つ六眼ならば見えるだろう。五条も甚爾も、そう察しがついている。万が一本当に検知できなかったとしても、分体が取り込んだ呪力を本体に送るタイミングは必ずどこかにあるはずで、それを追いかければ終わりだ。呪力さえ有していれば、食わせるものはなんでもいい。
「だいたいどうやって俺を餌にするんだよ。テメェの呪具でも食わせりゃいいだろ」
呪具、と自分で口にして、甚爾は咄嗟に自分の腹を――正しくは小さな呪霊が収容されているだろうあたりをおさえた。
「俺のはやんねえぞ」
「そいつ丸ごと食わせたらそれこそ大惨事でしょ……」
あの武器庫の中にどれほどの呪具が収納されているのかは、甚爾にしかわからない。盗まれたり紛失した呪具を細かく調べれば、おおよその想像はつくのだろう。しかし、五条はあえてそれをしなかった。あの中身は、少なからず自分が立ち入っていい領域ではないと、五条の中では線を引いて接することにしている。上層はやれ暴け取り上げろと口うるさく言ってくるが、知ったことではない。
「まあ、そんなわけでさ」
「どんなわけだよ」
「僕の残穢を僕が喰わせて大丈夫かなって思うくらい甚爾につけるから」
「俺はまだやるなんて言ってねえ」
「報酬ロクヨン。甚爾が六、でどう?」
「八だ。あと終わったら飯」
金の話に反射的に答えてしまってから、甚爾はため息をついて頭をかいた。この時点で、引き受けたも同然だ。五条はきっと甚爾が「十」と言ったとしても、快く了承しただろう。
「美味しいホルモン焼きでも探しとくよ」
「じゃ、準備よろしくね」とひらひらと手を振る五条に、甚爾はもう一度、今度は大きくため息をついて腰を上げた。
足首からふくらはぎ、内腿を通って付け根の方へ。それは前夜に五条の唇が辿ったのと同じ経路だ。袖から入り込んだ触手は甚爾の手首に幾重にも巻きついたまま蠢き、ゆるやかに腕を這い上がっていく。
甚爾自身は、呪霊は見えても残穢は見えない。そもそも見ようとしたことすらなかった。それ故に、五条がどこにどの程度の残穢を残しているのかは見当もつかないのだ。
冷たくぬめったものが肌を覆う感触に寒気がする。時折強く吸い付かれるのは、残穢の濃い場所なのだろう。どこもかしこも、甚爾の弱い箇所ばかりだ。
足も腕も絡め取られ、襟首から入り込んだものは背を辿り、腰や胸に広がりながら尾てい骨の辺りまで伸びていく。
服の内から引きずり出そうにも、掴んだところで形を変えて逃げられては抗いようがなかった。
「ん、……くぅ、」
固く閉ざした唇の隙間から、堪えきれない声が漏れる。口を大きく開けないせいで、息は上がる一方だ。
鎖骨を撫でた触手はそのまま首筋を辿って耳朶の後ろに伸び、小さく吸い上げる。実の息子に隠せとよく指摘される場所だった。おそらく今も、赤い跡が付いているのだろう。
五条悟の痕跡を、温度も触感も違うものが寸分違わず追いかけている。全身を、同時に。
その奇妙な背徳感に目眩がすると同時に、与えられていたものを奪われるような錯覚にも襲われて、甚爾は小さく頭を振った。
これは一応仕事で、自分は五条の用意した疑似餌だ。初めから喰わせることを目的としてここにいる。それを、よく理解しているはずだと言うのに。
(くそ、なんか腹立つな)
自分の肌についた残穢を喰われていく。消されていく。奪われていく。詳細も分からないようなものに。五条の描いたシナリオの通りだと言うのに、甚爾は理不尽な苛立ちを覚えた。給餌の遅延は悪手だろうが、大人しく食われてやるのも癪に障る。
甚爾は床に這いつくばったまま、武器を呑み込んだ壁ににじり寄ると、僅かにはみ出していた刀の柄に手を伸ばした。
手首に巻きついていた触手がぶちぶちと音を立ててちぎれ、あふれた体液が汚れた床をのたうって融合していく。それを尻目に、甚爾は握った刀を力任せに引き抜いた。
開いた穴からこぼれた液体が、フロア一帯に広がっていく。全面を覆い尽くすのは、もはや時間の問題だろう。とぷりと重さのある水音が四方で反響し、鼓膜を揺らした。
速さも質量も圧倒的に膨らんでいるというのに、ひとおもいに呑み込もうとしないところに知能の高さがうかがえる。不安も恐怖も呪力を産み、彼らの糧となり得るのだ。勿論それは、餌が自分でなければの話だが。
わずかに作り上げた隙を使って立ち上がろうと、刀を床に突き刺した。柄を逆手に握り、腰を上げかけたところで、全身にまとわりついた触手たちが一斉に蠢き始めた。
小さく薄く広がっていたものが近場のものと融合し、目的を持って姿形を変えていく。
首の後ろで形成された触手が二手に別れ、胸部を撫でた。厚みもなく幅の広いそれは、人の手とも舌とも違い、冷たく濡れていた。甚爾の乳輪を覆い尽くすように張り付くと、内側に小さな凹凸を成して行く。
「あっ……」
不揃いな突起でぞろりと乳首を擦られて、甚爾は思わず声を漏らした。慌てて口をつぐみ、支えにしていた刀の頭に額をつける。下がった視界に写ったものは、薄汚れた床に着いた自分の膝と、もう幾ばくの隙間もないほどに拡がった、スライムの海だ。
退路がないのは明白で、武器を振るう隙もない。そもそも、一度喰われかけている呪具にどれだけの威力があるのかもわからなかった。異質なものが肌を這い回る感触に身を震わせる。ここまできてしまったら、あとは時間の経過を待つしかない。五条の用意した餌がどれほどなのか、いつ本体を祓うのかもわかりはしないのだ。
(終わったらマジでぶん殴る……)
おそらく近場までは来ているであろう雇い主への恨み言を胸に、甚爾は静かにまぶたを下ろした。
よく見える自分の目を、こんなにもありがたいと思ったことはない。五条は眼前にそびえる廃ビルを見上げてそう思った。
人の視界とは異なる色彩。普段は煩わしいだけの呪力の奔流が、今日ばかりは面白いものを見せてくれている――仕込んだのは五条自身ではあるのだが。
ぽっかりと空いた見えない男のシルエットを追いながら、周囲の様子も探っていく。夕刻だと言うのに、随分と静かなものだった。帳を下ろす必要があるのかすらわからないほどに、人の気配がどこにもない。敷地を囲んだフェンスや立ち入り禁止の看板には、行方不明者の噂も相まってそれなりの効果はあったらしい。
ビルの中腹に意識を戻せば、ちょうど彼が捕まった瞬間だった。足が沈み、間髪入れずに引き抜かれる。前日に纏わせた残穢はきれいに喰われて消えていた。呪力を取り込んで膨れ上がった敵は、その大半を残しながらも一部をどこかへと流していく。下へ、下へと落ちていく呪力を辿っていけば、地下に差し掛かったところでぷつりと途絶えて見えなくなった。
「灯台もと暗し、かな?」
ビル一棟を占拠する図体の割に、索敵範囲が狭いとは思っていた。餌である甚爾に気を取られていたとしても、あと数歩で壁に手が触れるこの距離まで近づいて、検知されないのは異常だ。本体が別の建物にあるのだとしたら、もっと広域をカバー出来なければ容易に分断されてしまう。しかし、地上地下の縦方向のみに特化しているというのであれば、納得のいくところだろう。
五条は目元を覆う布を取り払い、喰われた呪力が消えた辺りを注視する。見えすぎるその眼は、的確に討つべき対象を捕らえた。何人も喰らったとは思えぬほどに弱い、その存在を。
「やっぱ甚爾の言う通り、吹っ飛ばしちゃって良かったね」
五条は再び顔を上げ、甚爾の様子を窺った。囮になれとは言ったものの、素直に捕まるようなタマでもない。出掛けに渡した四級呪具が、きれいな軌跡を描いて止まった。手が離れ、追っ手を逃れるように距離をとる。そろそろこちらの意図にも気づいた頃合だろう。
あの日はちょうど、釣り合わない任務に文字通り東奔西走して疲れていたのだ。息抜きに生徒たちと遊ぶ時間も作れず、しばらくぶりに逢えた甚爾の顔を見るなりふと思いついてしまった。いつもと違うことがしてみたい、自分以外の何かに乱される甚爾を見てみたい。と。
正直なところ、甚爾を犯してくれるものなら何でも良かった。けれど、変な傷を残したくもなかった。金を積んで相談すれば、それなりの状況を本人が用意してくれただろう。甚爾はそういう男だ。しかし、何を用意されようとも、コトが済んだら消したくなるに決まっている。はじめから祓う前提のこいつは、えらく都合がよかった。
「もっと近くでちゃんと見たいな」
事前にカメラでも設置しようかと思いはしたが、そこまではきっと許してくれなかっただろう。第一に、呪霊が映らないのでは意味がない。
飛んで窓から眺めるか。呪力を抑えて徒歩で向かうか。どちらが良いかを考えながら、五条は外周をぐるりと回った。
目線は上に向けつつも、呪力の流れに気を配る。甚爾に纏わせていた己の残穢が着々と呑み込まれていくのが面白くもあり、少しだけ不快でもあった。
ちょうど一周したところで、風化したコンクリートとガラス片が足元へと落ちてくる。ぶくぶくと膨れ上がった呪霊の体積が、部屋の広さに見合わなくなってきたのだろう。五条は地面を軽く蹴り、飛び上がった。目指す高さで上昇を止め、崩れた窓から中を注視する。
窓枠をねじ曲げ破壊して、呪霊は外にあふれる寸前まで肥大化していた。フロアの大半を半透明の粘体が満たしているが、部屋の中心には僅かばかりの空間があった。そこに、床に突き刺した刀を支えに蹲る甚爾の背中が見えた。時折小さく肩を震わせているのが、加虐心をくすぐる。
刀に込められていた呪力はもう幾許も残っていない。一度手を離していたあの間に、あらかた食われてしまったのだろう。
「……あ、しまった」
呪具の呪力を計算に入れていなかったことに気がついて、五条は思わず声を漏らした。
与えるつもりの総量から考えれば微々たるものではあるが、対峙している甚爾にとっては厄介な誤算となったかもしれない。最も、彼が自分に付けられた残穢の総量を理解しているのかは不明だが。
適当なタイミングで、地下に隠れている本体を吹き飛ばしてしまおうかと視線を落とす。再び顔を上げると、熱にうかされて潤んだ翡翠と目が合った。
口を固く閉ざしていたのか、血の気を失った唇が開いて、いくつかの単語が舌に乗る。読唇術の心得はなく、声の届く距離でもない。それでも、甚爾が何を告げたのかを五条はすぐに理解した。
認識した次の瞬間、五条は半ば反射的に練った呪力で建物の土台を――正しくはその中に隠れていた呪霊を、瞬く間に粉砕していた。