〝めぐみがたおれた〟
液晶画面の上部から降りてきた通知に、甚爾は一瞬意識を取られた。
送信者の名前は五条悟。常日頃から、やけにしつこくどうでもいいメッセージを連投してくる息子の担任だ。基本的に通知だけを一瞥して、余程の事がなければそのまま無視で対応していた。しかし、変換もされていない短いそれは、五条がいつも送ってくるものとは様相が違っている。
さてどうしたものか、と考えた数秒で、登録させられた複数人から似たようなメッセージが届いた。どうやら自分の一人息子は、父親とは違い優しい人に恵まれた環境にいるようだ。それを再認識してほんの少しだけ口元が綻んだ。
甚爾は繁華街へ向かっていた足を止め、踵を返す。通知の中から一番まともに話ができるであろう人を選び、通話のボタンを押した。短いコールを経て、それはすぐに繋がった。
人気の少ない道を使い駅へ戻りながら、電話口の相手に問う。
「なんかあったのか」
「いや、風邪を拗らせただけだよ。薬を飲んで二、三日も寝ていれば治るだろうが――できればそっちで面倒を見てはもらえないだろうか」
淡々と要件を告げる家入の声の後ろでは、先程自分にメッセージや通話を送っていた若者たちの声が響き渡っている。この騒々しい環境に置かれていたら、治るものも治らない。と彼女は言いたいのだろう。
人選を誤らなかったことに、甚爾は安堵の息を吐く。適当に選んでクラスメイトやその担任など選んでしまった日には、なかなか話もまとまらなかっただろう。二、三日、恵を静かに寝かせておける場所、と甚爾は頭を巡らせかけて、頭を振った。
「今は無理だ。男子高校生なんて傍に置いていい女じゃねえ」
「それはどっちの意味でだ?」
「寝てる間に食われちまう」
今甚爾が転がり込んでいる家の女は、甚爾でも手を焼くほどの好色だった。〝病で臥せった見目のいい高校生男子〟など据え膳もいいところだ。
「それは困るな。こっちで部屋を用意してもいいが……」
「それじゃなんも意味がねぇだろ」
高専側で用意をすれば、それはすなわち五条を通じて誰もが知れる場所になるということだ。分別のつかない子どもたちでないことはわかっているが、訪問へのハードルは甚爾の元より低いだろう。
悪いが他を当たってくれ、と言いかけたところで、もう一人都合のいい男がいることに思い至った。
「――いや、アテはあるな」
「任せても?」
「ああ、迎えに行く」
2
熱で朦朧とした恵がぼんやりと目を開けると、見慣れない景色が広がっていた。天井に埋め込まれた間接照明に落ち着いた色の遮光ブラインド、寝かされていたベッドの脇に設えられたナイトテーブルには、未開封のペットボトルが一本と、空っぽの小さな灰皿が伏せられている。
(どこだここ……)
恵の身近にいる喫煙者は少ない。そして、その誰もがこの部屋には似つかわしくないとも思った。
完全に知らない部屋だ。ここは誰の部屋で、どうして自分はここにいるのか。どんなに記憶を辿っても、思い出せるのは教室で視界がぐらついたところまでだ。
部屋の扉は開け放たれていて、その奥には四人掛けのダイニングテーブルと造り付けのカウンターが見えた。一つ引かれた椅子にはスーツのジャケットが引っ掛けられており、カウンターの上には吸い殻の乗ったアルミの灰皿と、乱雑に放られたタバコと財布が置かれている。時折耳に届く雑音は、おそらく換気扇のものだろう。カウンターの裏側からたち昇った細い紫煙が、レンジフードに吸われていくのが目に入った。
恵はひとつ寝返りを打って、小さく鼻を鳴らした。鈍った嗅覚にも届くその匂いは、知らない人間の、知っている匂いだった。父親がたまに纏わせている煙草の移り香と似ている。それはつまり、自分をここへ連れてきたのがその父親で、この部屋の持ち主はその移り香のおおもとの人物なのだろう。
名前くらいは聞いておけばよかった、と恵は思った。声を掛けてみようにも、なんと呼べばいいのかがわからない。室内には穏やかな静寂が続いており、連れてきた当の本人は不在のようだった。
とりあえずの身の危険はないだろうと判断し、恵は再びまぶたを閉じる。父親について信用は出来ないが、信頼はしている。悪い事にはならない筈だ。
視界を閉ざして敏感になった聴覚が、小さな物音を拾っていく。アルミが跳ねる音。紙と枯れ草の焦げる音。馴染みのない音に耳をそばだてて微睡んでいると、風の音が止んだ。