酒と薬となんとやら
1
出された酒に唇だけつけ、舐めるようにひとくち。それ以降は一切口をつけない。つがれた時と大差のない量を残したところで、五条家当主を咎める者はいなかった。それが、悟がこれまでに身につけてきた「酒の席での対処法」だ。
年明けに行われる、形式ばかりの集まりだった。いつも通りにひとくち嘗めて、楽しくもない年寄りの話を聞き流す。程よく騒がしくなったところで抜け出して、あとは確保したホテルに帰るだけ。実家詣でのルーティンだ。
そのルーティンが崩れたのは、酒を嘗めて一時間ほど経過した頃合いだった。酔いとは違う熱が、体の奥から滲み始めた。近くで酌をしている女の質が、一段上がった。そして襖で閉じられた隣室に、人の気配が増えた。自席のそばに置いてある香炉がいつもとは違う匂いを漂わせていることにまで気がついて、悟は静かに席を立った。
「じゃあ僕は帰るね。今年もよろしくう~」
よろしくしてやるつもりなど毛頭ないが、緊急時になれば使うこともあるだろう。当たり障りのない軽い挨拶を放って、悟はこの珍妙な甘さを拵えた宴会を、颯爽と逃げ出して来たのだった。
悟が実家に泊まることを忌避し始めたのは、高専を出て初めての正月を迎えた時だった。上げ膳据え膳で出された酒を断りきれず、飲み干して、目が覚めたら女が上に乗っていた。幸か不幸かモノが勃たず未遂に終わったが、悟はその時、飲まず泊まらずを心に決めた。
三十路を過ぎて、そろそろ跡継ぎをという空気が強まっていることは解っていた。しかし、悟にはその気がない。自分が生きている限り六眼は生まれないのならば、わざわざ自身の子を成す道理がないと悟は考えている。
見合いは断り、時にバックレ、夜這いの隙も見せないように。そうしてのらりくらりと躱していたら、とうとう犯罪まがいの暴挙に出られた。
今日出された酒は、熱した日本酒だった。高専時代に下戸であることを自覚してから、特に避けてきたものだ。酒蔵や銘柄による仔細な違いなどわかりはしないが、最初に何かを仕込まれたとすればそれ以外は思い当たらない。強い匂いに顔を顰めながら、舌先で触れた程度だったというのに。
(揮発性の薬か何かか? 熱燗に?)
馬鹿じゃないのか、と胸中で吐き捨てながら、ホテルまでの道を足早に歩いていく。夜風に当たっても中々冷めない熱に、苛立ちばかりが募っていった。
席の配置も、置かれた女も、隣室も、そして焚かれていた香すらも、全部が全部、悟に子を成させるために用意されていたものだろう。大部屋にいた、全ての人間に悪影響があったかもしれない。乱交でもするつもりか、と更なる不快感が積み上がった。自身の受け持つ生徒たちのような、若い年頃の子がいなかったのがせめてもの救いだ。
(そろそろ本気でどうにかしないと)
家や血筋に執着しすぎる重鎮連中を黙らせなければ、後進達にも悪影響だ。
霞みがかってふわふわとした思考を緩やかにまとめながら、悟はルームキーを手に取った。チェックインは既に終え、荷物は部屋に運ばれている。頭を垂れて挨拶するホテルスタッフに片手を軽く振り返し、悟はそのままエレベーターへと乗り込んだ。
宿泊先は、実家から適度に離れた観光ホテルの一室だ。毎年違う施設を直前に押さえることにしている。今年は連泊で、広さもグレードも中途半端な部屋になった。大きめのベッドがふたつとソファベッドがひとつ。都合三人泊まれる広さだ。明日は御三家が揃う催しがあり、悟はその場に恵を連れていかなくてはならない。五条家の当主としてではなく、彼の教育者としてだ。恵を京都に滞在させるつもりはないのだが、万が一帰れなくなった場合の保険にと選んだ部屋だった。
あの家の人間は、悟のこうした行動すらも気に入らないのだろう。
玄関を開けて、中へと足を踏み入れる。短い廊下を抜ける途中で水音がして、思い出した。
(そういや甚爾呼んでたっけ……)
嫌がらせと憂さ晴らしと近況報告、様々な理由を取って付けて呼び出して。不在の間は好きにしていいと、実家に向かう前に招き入れたのだった。
「甚爾」
遠慮もなしに脱衣所へ行き、その先で入浴中だろう人影に声をかける。脱衣所と浴室を隔てる中開きのガラス戸は、悟が手を伸ばす前に静かに開いた。
「早えな」
おかえり、と短く告げる声と同時に水音が止む。隙間から湯気と共に現れた腕が、悟の横にある棚からタオルを攫った。
存外に白い肌に目を奪われて、悟は一瞬息を呑んだ。浴室内は冷えた空気と混ざりあい、だんだんと湯気が晴れていく。あまり長く留まることは避けた方がいい、と、頭の中で警鐘が鳴った。
視線を逸らし、平静を装って、予め用意していたセリフを口にする。
「呼び出しといて悪いんだけどさ、帰ってくんない?」
「は?」
問い返すような短い返答と、戸を引く音。蒸気を含んだ空気が動く。おざなりに体を拭った甚爾が、訝しみながら悟の体に顔をよせ、スンと鼻を鳴らした。
「薬でも盛られたか」
ざまあねえな、と小馬鹿にするような言い方をする甚爾に、悟は半ばやけになって、そうだよと返した。続けて、だから帰ってくれと、先程と同じ言葉も口にする。
全裸の甚爾を前にして、悟は自分の理性の箍が外れかけていることに気づいていた。狭い脱衣所で、出入口はすぐそこだというのに、逃げるという選択肢が頭から完全に抜けていたのだ。
だからこそ、早く、今のうちに、甚爾をどこか別の所へ追いやらなければならない。
そんな悟の胸中を知ってか知らずか、甚爾はタオルを首に掛けたまま、悟の肩へ両の腕を乗せ、笑みを浮かべた。
「別に最初からそのつもりだったろ。普通にヤりゃあいいじゃねえか」
「手加減できないから帰れって言ってんの」
「いらねえだろうが。そんなもん」
悟の必死の訴えは甚爾には届かなかった。どころか、ほんの少し甚爾の機嫌を損ねたようにも思えた。
意地でも抱かれるつもりでいる甚爾に向かって、悟はただ一言、諦めるように言った。
「後悔しても知らないよ」
2
後悔ならば飽きるほどした。悟と一夜を共にして、後悔をしなかった事の方が少ない。
初めて肌を合わせたのは、随分と昔のことだ。仕事ではなく、生活手段として女と連れ立っていた時に、悟が真正面から交渉に来た。女は悟の見てくれと出された札束にあっさりと陥落し、甚爾の「その後の予定」全てを悟に売ったのだ。
その件に関して、甚爾は多少腹を立てはしたものの、別段どうとも思わなかった。失った一宿一飯と小遣いに、上手く行けば得られたであろうその後の生活の補償さえして貰えるのなら、相手は誰でも構わないのだ。
甚爾の気持ちが揺らぎ始めたのは、行為に対して金を取らなくなった頃からだ。恵の生活にかかる一切を悟に丸投げして、その代わりに脚を開く。甚爾の懐に直接金が入らないという点を除いては、それまでと大して変わることの無い条件のはずだった。しかし、悟の考える「恵の生活」に自分も含まれていると知ってから、甚爾は酷く後悔をした。
悟のヒモになるつもりなんてなかった。恵の術式が判明すれば、その価値に合わせて悟は支援を続けたはずだ。たとえ甚爾がいなくとも。
逃げるように姿をくらましても、ひと月と経たずに居場所は割られた。見えすぎる悟にとって、見えない甚爾は目立つのだ。いっそ国境を跨いでしまえば、と考えたこともあったが、実行するには至らなかった。それも甚爾の後悔のひとつだ。離れるのが遅かった。情が移ってしまうほどに。
それを自覚してから、甚爾は逃げることをやめた。呼ばれたら応じ、さして興味のない近況を耳に入れ、恵を連れて三人で出かけるような、家族の真似事も行った。
仲良くなったのとは違う、ある程度割り切ることにしたのだ。甚爾の中における悟の立ち位置を。
今日の悟の予定が五条家での新年の催しであることは知っていたし、翌日の悟の仕事内容が、恵の引率である事も把握済みだ。今夜、ここで、悟の鬱憤の類を晴らさせるのが、自分の役目だと自負していた。
成果としては上々だろう。追加報酬をふっかけてもいいくらいの仕事をした、と甚爾は隣で眠る悟の姿を見て思う。
汗やら何やら、様々な体液でぐちゃぐちゃになったベッドから足をおろし、甚爾は再び浴室へ向かった。今すぐにでも眠りについてしまいたい程に疲れてはいるが、腹の中のものを掻き出さなければ、また新たな後悔を生むことも判っている。
覚束無い足取りで辿り着いた脱衣所で、数時間前に放ったバスタオルを拾い上げる。思っていたより水気を含んで重いそれに舌打ちをして、もう一度床に放り捨てた。
バスマットはくしゃりと歪み、足元は濡れてよく滑る。普段であれば事後に使うことを考慮して、もう少し整えているというのに。
(俺もヤキが回ったな)
帰れと言われた事が癇に障った。
手加減をしていたと――身を気遣われていた事にも腹が立った。
そして何より、その状況を作り出したのが五条の家であったことが、不愉快で仕方なかったのだ。
甚爾は大きく息を吐いて、備え付けの棚に手を伸ばした。もやもやとした気持ちの腹いせに、悟が翌日使うはずのフェイスタオルをバスマットにしてやろうと思ったからだ。柔軟剤が効いてフワフワとしたタオルを乱雑に広げようとしたところで、洗面台に写る自分の姿が目に入った。
首から胸部にかけて散らばる鬱血痕。腰の辺りには長い指の跡が薄らと残り、肩には浅い歯型も見える。いずれもつい先刻、悟がつけたものだ。悟の意識が一番混濁していたであろう間は己の負担を考えて背を向けていたことを考えると、背面にも相当な数の痕跡が残されているだろう。項と肩甲骨の辺りは、特に強く噛まれた記憶がある。
甚爾が覚えている限り、悟がこんなに跡を残したことは今まで一度たりとも無かった。せいぜい、女が戯れにつけたキスマークを上書きしていた程度だ。
変色した表皮を指先でひとつひとつ辿るうちに気づいた事柄に、甚爾は喉を鳴らして笑った。
「――あいつ俺しか知らねえのか」
悟の初体験は甚爾だった。手っ取り早く捨ててしまいたいが、家の人間が連れてきた女は面倒くさい。しかし商売女に手を出すには、少しばかり年齢が足りない。だから甚爾が相手してよ、となんとも気楽に宣ったのだ。あの男は。必要ならば金も払うとひと言添えて。
その宣言通り、悟は紛うことなく童貞だった。知識も手順も完璧だったが、初挿入はみこすり半で終わった。最強の肩書きを持ち自信に溢れた男が、己の醜態に情けなく肩を落とす姿はなかなかに面白いものがあった。
女は面倒。金は払う。甚爾でいい。そんな妥協に妥協を重ねたような言葉が少しずつ変化していって、悟はいつの頃からか「甚爾がいい」と言うようになっていた。
その変化を真面目に考えたことはなかったけれど、つまるところ、悟は甚爾に――正確に言えば甚爾の体にハマってしまったのだろうと推察する。
いくら間が空いても、彼が女を抱いたという話はついぞ聞いたことがなかった。実際、女を抱こうと思った事があったのかすらも怪しい。甚爾で足りていると言われてしまえば、細い人脈を使ってわざわざ女を斡旋してやる理由もない。甚爾自体、悟との行為に後悔こそあれど不満はなかったのだ。
――甚爾だけでいいのに。
うわ言のように何度も繰り返された言葉が、頭の中に木霊する。
望めばなんでも手に入るような環境で育った男が、何も持たない自分を欲している。その事実を正面から突きつけられた気がして、甚爾の胸は不覚にも高鳴った。認めたくは無かったけれど。
甚爾は小さく舌を打ち、手元のフェイスタオルを丸めて棚の上へと戻した。シワの寄ったバスマットをつま先で均し、浴室の扉を押し開ける。高揚しかけた体温を落ち着かせるために、給湯温度をいくつも下げた。
壁に引っ掛けられたままのシャワーヘッドから、水蒸気を纏ったぬるま湯が降り注いでいく。そこに頭から突っ込んで、甚爾は深く息を吐いた。肌を滑る、人肌ほどまで下げた湯は床を跳ね、足先に触れた水流は随分と冷たくなっていた。
3
目元を刺す澄んだ光で、悟はぼんやりと目を覚ました。カーテンが開け放たれたままの窓から覗く太陽は、想定よりも高い位置から部屋を照らしている。
(……頭痛え。今何時……?)
予定していた時間より遅いことは、見えた景色で察しがついた。遅刻などいつもの事ではあるし、特に気にもしてはいないが、いつもなら――甚爾と過ごした翌朝であれば、蹴落とされてでも起こされているはずだった。
時計を探して部屋を見渡して、窓の近さに違和感を覚える。
昨晩、浴室から真っ直ぐになだれ込んで使ったのは、短い廊下から一番近い壁際のベッドだ。痛む頭を抑えながら身を起こし、悟は可能な限り記憶を辿る。しかし、自ら移動した覚えはどこにもない。
本来自分たちが使ったであろうベッドはシーツも枕カバーも剥がされた状態で放棄されており、悟自身もホテルに備え付けられた寝間着を雑に――そもそもサイズがあっていない――着せられて、窓際のベッドに転がされていた。
見回した範囲に、甚爾の姿も見当たらない。
おぼろげに覚えていることといえば、嫌がるどころか積極的に身体を開いた甚爾の姿だ。水気の残ったままベッドに横たわり、両手を伸ばして誘いかけてくる事など、今まで一度たりともなかった。面倒そうに舌を打つでもなく、視線を逸らすのでもなく、ただ真っ直ぐな視線でもって、したいようにやれと言ったのだ。あの男が。
扇情的なその姿を思い出して、悟は顔が熱くなるのを感じた。
(何が、後悔しても知らない、だよ)
後悔しているのは自分の方じゃないか、と自嘲気味に思って、悟は大きく息を吐いた。
十年以上、ずっと残していた逃げ道を塞いでしまった。自分のも、相手のもだ。あの時甚爾が何に腹を立てていたのかは、酒も薬も抜けた今なら良くわかる。だからこそずっと、隠し続けていたというのに。
次に顔を合わせる時は、今までと同じというわけにもいかないだろう。どうしたものかと頭を悩ませていると、洗面所の扉が静かに開いた。
「ああ、なんだ。起きたのか」
甚爾はまるで何事も無かったかのように、目覚めた悟を見て口を開いた。備え付けの小さな冷蔵庫から水のボトルを二本取り出し、ひとつはキャップを開けて口につけ、もうひとつを悟の方へと放りやる。
「オマエは寝てろ。俺が行く」
端的にそう言って、ローテーブルに置かれたタブレットを取り上げる。悟の仕事用の端末だが、ロックの解除方法は共有済みだ。甚爾に見られて困るようなものなど、初めから端末の中には入っていない。
甚爾の態度は変わらない。が、無かったことになってはいないのだろう。受け取った水をひと口流し込んで、悟はようやく口を開く。
「ねえ、それ、僕のだよね」
淡い緑の羽織に、濃紺の着物。甚爾が身に纏っている羽織袴は、襦袢も長着も帯のひとつを取っても、悟が今日着るために紋を入れずに仕立てていたものだった。
「だから俺が代わりに行ってやるって言ってんだよ」
甚爾は開いたタブレットで場所と時間の確認をし、同じテーブルの上に無造作に置かれていた悟の目隠しを掴むと、そのまま自らの首にひっかけた。
「恵の保護者ってんなら、俺でも別に問題ないだろ」
問題ならば大ありだと思いはしたが、悟はそれを言う気にはならなかった。あの御三家が勢ぞろいするような場所に甚爾が行ったらどうなるのか、正直に言えば興味が湧いてしまったのだ。五条悟の代理として、その服を纏ってとなればなおさら。
甚爾の首に掛けられた目隠しの下や、少し緩んだ襟元の隙間からは、昨日の情事の痕跡がしっかりと張り付いたままで。加減もせずに強く吸い付いた跡も、噛み付いた歯型も、掴み、押さえ込んだ指の跡も、その身体中のあらゆるところに残されている。
度の過ぎた独占欲は、目に見える痕も見えない痕も、その全身に克明に刻み込まれている。
「――じゃあ任せるよ。好きにして」
かつて自分が言われた言葉をそのまま返し、悟は小さく手を振った。
それを聞いた甚爾は僅かに目を細め、どこか晴れやかな笑みを唇に浮かべ、喉を鳴らす。
「テメエに薬を盛るとどうなるのか、アイツらにわからせて来てやるよ」
羽織紐を締め背筋を伸ばし、甚爾は部屋を後にした。
挑発的な言葉だけを残して。
はんぶんには、すこし足りない
1
幼い頃に受けた衝撃が一目惚れというものであったとしたら、悟が初恋を拗らせてから、干支は二周目の終盤を迎えたところだ。
成就させようと言う気持ちを抱いたことは一度もなかった。しかしそれでも、世のイベントに乗じて渡せるものは渡したいのだ。
(今年はどうしようかな)
悟は目の前に積み上げた色とりどりのショッパーを前に思案する。二月に入って二週間、暇を見つけては催事場へと立ち寄り、買い集めてきたものだ。
その殆どは自分用で、一部は可愛い生徒たちへのお裾分けだ。値の張るお菓子を素直に喜ぶ悠仁と野薔薇の反応は新鮮で、見ていて心地が良かった。年々リアクションが薄くなっていた恵も、彼らと過ごすようになってからは、少しばかり表情が豊かになったような気がする。
問題は、それらの山から避けた一箱の行く先だ。
黒地の包装紙に金の箔でブランドロゴが押された、長方形の箱。シックなデザインのその中身は、ティーンエイジャー向けの甘くカラフルな物ではなく、アルコールが内包されたビターチョコレートだった。
悟は酒を好まず、未成年である生徒たちへも渡せない。間違えて買った、人に貰った、試食として入っていた――などと、毎年それらしい言い訳を使いながら押し付けてきた。しかし今は、そのどれもがしっくり来ない。原因は明白だ。
環境が変わり、子供たちとテーブルを囲むことがなくなった。立場上、人から貰うものに警戒するようになった。そしてなにより甚爾はこの時期になると女を作り、持ち帰れないと断る下地を用意するようになった。
関係性の発展は、今まで通りでは見込めない。
拗らせに拗らせて、もう二十年余りだ。
(まあ……もう潮時かな)
複雑に考えるのを諦めて、悟は黒い箱を手に立ち上がった。
「甚爾いる?」
悟が向かったのは寮の談話室だ。いるもいないも見ればわかるが、声を掛けるのは暗黙の合図だった。人前でする話では無い時に、悟は甚爾を名指しで呼び出す。
輪になっていた生徒たちの一部がこちらを見て、それからゆっくり道を開けた。彼らが開けた隙間から見えたのは、少し疲れた顔をした甚爾だ。話題の中心に甚爾がいるとは珍しい、と思いながら、悟は小さく手を招く。
暖房の効いた談話室に比べて、廊下はだいぶ冷え込んでいる。薄着のまま出てきた甚爾は寒暖差に肩を震わせて、入口近くの壁に背をつけた。
「何の話してたの?」
「別に大した話じゃねえ。用件は」
「これ」
悟は手にした小さな箱を、甚爾の目の前に差し出す。長方形の、黒と金でシックなデザインを施されたあの箱だ。
いつも添えられていた〝言い訳〟が無いことに違和感を覚えたのか、甚爾は僅かに躊躇いながら、箱の端を摘んだ。
ちらりと覗いた瞳が、悟の様子を伺う。訝しむような、戸惑うような、逃げ道を探しているような、なんとも言えない表情だった。
「本命だよ」
甚爾の目が自分に向いたのをいい事に、じっとその目を見つめたまま、悟は言った。
「甚爾もさあ、少しくらいは気づいてたでしょ。これは本命だし、今まであげたのも全部、甚爾への本命チョコだったよ。僕からのね」
差し出した箱の端を掴んだきり、甚爾は何も答えなかった、今までに渡したものを思い出したりしているのだろうか。しばらくして、小さなため息と共に、握られた箱が小さな音を立ててひしゃいだ。
「いらないならそのまま離して。考えといてくれるんなら、持っててよ。僕はいつまででも待ってるからさ」
甚爾に関して、悟は随分と待つことに慣れた。
二十余年。人生の大半を、この男に執着して生きてきたようなものなのだ。
「僕の用件はここでおしまい。また後でね」
一歩足を下げて距離をとり、差し出した箱に触れていた指を、未練がましく少しずつ離した。
悟が全ての指を離しても箱は甚爾の手の中に残されたまま、また少しだけ、いびつに歪んだ。
2
二月に入ってすぐの頃、住んでいた家の女が飛んだ。二、三日ほど家を空け、戻った時には少ない甚爾の私物を残して、めぼしい物が持ち去られた後だった。
部屋の中央に伏せられたダンボール箱の上に一枚の名刺が乗せられていて、そこには割と名の知れた悪徳業者の屋号が記載されていた。女の行方を知りたければ連絡をしろということなのだろう。
世話好きだが地味な見た目で、金回りの悪い女だった。今季の繋ぎにと手を出して、懐に入り込むために幾らかの金を使った。年明けに渡したその金が仇になったのか、元より何か抱えていたのかは知る由もないし興味もないが、甚爾が一番必要としていたタイミングで、女は姿を消してしまった。否、消されてしまった。
甚爾は紙片を握り潰し、私物と共に呪霊に呑ませた。繋ぎの女の行く末など知ったことでは無いし、行方不明者の家に、余計な情報を残しておくのも得策では無いだろう。業者の方も、名が知れているだけに頭が悪いと甚爾は思った。
(――仕方ねえ)
呪霊を再び腹に納めて、甚爾は静かに部屋を出る。鍵もかけず、振り返ることもせずに歩き出した。貰っていた合鍵は、どこかで適当に溶かすか潰すかしてしまおう。
向かうアテなど一つしかない。息子が通う高専の寮だ。
できることならこの時期に行くのは避けたかったが、背に腹は変えられない。彼女がただの失踪者として片付けられるまで、隠れていた方が面倒がないのだ。
華々しく飾り立てられ、甘い匂いに満たされた街並みを歩きながら、甚爾は小さくため息をついた。
今年もきっと用意されているのだろう。自分が受け取る選択肢しか残されていない、チョコレートが。
甚爾が実家を出る前――悟が幼い頃に一度。それから随分と期間が開いて、恵の世話を任せるようになってからは毎年。
それが、甚爾が悟にチョコレートを貰った回数だ。
人に貰ったお裾分け。たくさんあるからみんなで。少し買いすぎたから。子供に食べさせるにはまだ早い。悟が毎年添えるらしい言葉に、甚爾はあえて知らぬ振りを通してきた。
初めのうちは事実だったのだろう。幼い悟が持ってきたのはあからさまに他の誰かに貰ったアソートの一つであったし、恵が幼い頃に積まれていたのはファミリーパックがほとんどだった。
いつしかアルコールの入ったものが甚爾の目の前にだけ置かれるようになり、悟が催事場を渡り歩くようになってから、ひと目でわかるほど単価が跳ね上がった。そこに含まれた真意に気が付かないほど、甚爾も鈍くは無いつもりだ。
明確な意図を持ったのはこの数年のことだったろう。けれど、恐らく最初からその傾向はあったのだ。物心が着く前から甘やかされて、与えられることが当たり前として育った子供が、進んで人に何かを分け与えようだなんて、思い至るはずがないのだから。
子供に下げ渡されないように、断られて突っ返されないように、アルコールを含んだものを。妙な誤解や警戒心を与えぬように、名の知れたメーカー品やブランドのものを――。確実に甚爾の口に入るようにと計算し、受け取りやすい言葉まで添えて。悟がそうして少しずつ積み重ねてきたそれは、着実に甚爾の中に蓄積されていた。
悟が〝言い訳〟を並べ立てているうちに、素知らぬ振りで距離を置かなければと思うほどに。
――だというのに。
「どうすんだ、これ」
手放すことの出来なくなった、ひしゃげた箱を見つめて、甚爾は誰にともなく呟いた。
あの日の出来事は、甚爾にとってはとんだ誤算だったのだ。
素通りしようと思っていた談話室の前で、談笑していた生徒たちに捕まった。真希とパンダに両脇を取られ、野薔薇に背中をグイグイ押され、棘が構えた椅子に半ば強制的に座らされた。そうして眼前に突きつけられたのは、真新しい女性誌の特集記事だった。
『数量限定、即日完売、今年一番人気の最高級チョコレート』と題された見開きにあったのは、甚爾が今現在持て余している、黒いパッケージのそれだ。
悟がそれを購入していたのを、恵が目撃したという。そして、甚爾が去年同じページに載せられた別のブランドの商品を貰った事を、真希とパンダが覚えていた。
あいつの金銭感覚なら値段も気にせず買うだろうし、平気で人にやったりもするだろう。そう言おうとした甚爾の言葉は、紙面をビシリと指差した野薔薇の声に見事に遮られた。
「こんなクッソ高いチョコ、本命以外にあげたりしないっしょ」
この、ごく普通の価値観を持ったティーンエイジャーがその場にいた事が、甚爾にとっては最大の誤算だった。
それが本当に本命なのか、いつ渡されるのかどう判断するのか。彼ら彼女らは年相応にそんな話題に花を咲かせ――そしてついには賭けをはじめた。
生徒たちの輪の中心に座したまま、甚爾は軽く頭を抱えた。消えた女の件で国家権力の相手をしていた方が、精神的には幾分かマシだったかもしれない、と。
3
バレンタインデーの一件以来、甚爾はずっと恵の部屋に居座っていた。寮内には甚爾の部屋が一応用意されているにも関わらず。居座り始めて半月以上が経過して、そろそろ今年のタイムリミットが迫ってくる頃合いだ。
いつまででも待っていると言った言葉通り、悟はいつまでも、それこそ干支があと何周しようとも待ち続けてくれるのだろう。突然催促をしてくる可能性がないかと言えばわからないが。
「アンタいい加減、自分の部屋に帰れよ」
その日の授業を終えて部屋に戻った恵は、床に転がったままの甚爾を足蹴にし、吐き捨てるように言った。
つまみ出そうにも体躯と膂力の差は絶大で、恵ひとりではどうにもならなかった。だからと言って、こんなくだらない諍いに隣人を巻き込むのも気が引ける。
「別にいいだろ。減るもんじゃねえし」
「俺の生活空間が減ってんだよ。邪魔だ出てけ」
踏んでも蹴ってもビクともしない父親に、恵は派手に舌を打って手にしていたものをその顔面に叩きつけた。
右端をホチキスで綴じられた、十数枚程度のコピー用紙の束だ。表紙には大きくマル秘の文字がプリントされている。
「なんだこれ」
「ホワイトデーのおすすめ資料。釘崎から」
腹を踏み抜いて越えて行こうとする恵の足を避けながら、甚爾はぺらりと表紙をめくった。
雑誌の切り抜きやウェブサイトのスクリーンショットから始まって、SNSの情報やら出先で見つけたらしい催事場の住所と外観写真。学生らしくまとめたと言えば聞こえがいいが、画像やテキストを切って貼って並べただけの雑な作りだ。それらのいくつかに手書きのメモが添えられている。オススメ!と書かれているものはチョコレートの値段を考慮したのか、どれもこれも値の張るものばかりだ。しかもところどころに複数の筆跡で「これほしい」「うまそう」「しゃけ」といった文字列まで書き込まれている。親切なのかただの催促なのか、いまいち要領が掴み難い。
甚爾はパラパラとページを流し見て、一年と二年の、一人を除いたほぼ全員がこの資料と称したものに何かしらのコメントを残している事に気付いた。
書き込んでいない本人は、今現在甚爾の目の前に居る。
「――オマエはどう思う」
「犬のマシュマロは食いにくいなって」
「昔はそんなのしか食わなかった癖にな」
「知らねえ。いつの話だそれ」
動物を象ったビスケットやスナックを好んで選んでいたのは、悟に世話を任せるよりずっと前の話だ。本人の記憶にないのも無理はない。逆にそれ以降の恵の生活を、甚爾はあまりよく知らなかった。
机に向かって本を読む姿は、甚爾の記憶に色濃く残る姿よりも随分と大きい。それだけの時間が経っているのだと、今更ながらに思った。
(長えな)
悟が渡して来たものが、いつから〝本命〟になっていたのかはわからない。――わからないが、本人の言葉を信じるのならば、ちょうど今年で二桁に突入したところだ。初めからそのつもりだったのならば、想いの長さはその倍を超える。
随分と滑稽で信じ難い事ではあるが、それが事実なのだとしたら、と考えて、甚爾はどこか胸のすく思いがした。
一通り目を通した〝資料〟をスウェットの腰に挟み込んで、甚爾はゆるりと身を起こす。幸いなことに、今現在の懐事情は悪くはない。
「出掛けてくる」
それだけを告げて立ち上がる。反応は特に期待していなかった。
「ここには帰ってくんなよ」
自室の床を指し示し、棘のある言葉を発する息子に苦笑しながら、鍵のかかっていない扉を開いた。
「――あの人は、アンタがくれるもんなら角砂糖でも喜ぶだろ」
閉まり際の恵の声は、静かに甚爾の鼓膜を揺らした。
二月と比べて、三月の催事は規模が小さい。男よりも女の方が購買層が厚く、イベント事を喜ぶ。そして女は定番のようなプレゼントのお返しに、自らの欲しいものをねだりがちだ。経済的な話ではなく、甚爾の今までの経験則だ。
金のないヒモ男という立場に収まっている甚爾の世話を焼く女は、甚爾からのお返しに大きな期待をしていない事の方が多かった。彼女らの言う「なんでもいいよ」の中に、高価な品は含まれない。だからあえて、少しだけ値の張るものをくれてやるのだ。その先の生活を延命するために。
しかし今回ばかりは勝手が違う。近場からいくつかの店をハシゴして、私情の塊のようなメモに書かれた商品を選んで購入していく。期日も近づいて売り切れているものもいくつかあったが、そこは適当に類似品で誤魔化した。最後の店で選んだのは、まるまるとした犬の顔がプリントされたマシュマロと、もうひとつ。
淡く輝く青に目を引かれ、迷うことなく手に取った。値札の横に小さく掲げられた注意書きを一瞥し、気にもとめずにレジへと並ぶ。
三倍返しだなんだと嘯かれて久しいが、生憎その概念は甚爾の中には存在しない。重すぎるものへの返しなど、足りないくらいがちょうど良いのだ。
全員のリクエストに応えて買い込んだ品々は、トータルで結構な量と金額になった。両手に抱えたショッパーを床に下ろし――他人の口に入るものを呪霊の腹に入れるのは、流石に少し躊躇われた――甚爾はひとつの箱と、レシートをまとめた茶封筒を悟の膝の上に放りやった。
「何これ」
「領収書。……いや、請求書か?」
「それはわかってるよ。こっちの箱は……」
なに、と言いかけて、悟は一瞬言葉に詰まった。
白と水色をベースにした、淡い色合いの包装紙。右上には、可愛らしいデザインを施された「Happy White Day.」のステッカーまで貼り付けられている。
それが意味するところはひとつだ。
「開けていい?」
訊きながら、悟は返事も待たずに包装を破り去る。
底面が長4封筒と大差ないサイズの箱の中には、小指の先程のドーム型をした砂糖菓子が並んでいた。全体的に淡い色合いで、小さなキャンバスにグラデーションが描かれている。ひとつをつまみ上げて振ってみれば、ちゃぷりと小さな水音を立てた。
その菓子の名を、悟は知っている。
「……甚爾」
「なんだよ」
「これお酒入ってるよね?」
「そうだな」
「僕お酒飲めないだけど」
「知ってる」
不満げに向けられた視線を無視して、甚爾は悟がつまみ上げた青いひと粒を指ごと食んだ。甚爾の舌が掬いあげようとする前に、小さな宝石は軽い音を立て、驚愕した悟の指の腹に潰されてしまった。
指の先まで舐めとって、甚爾はようやく口を離した。
「マジで砂糖の塊だな」
甘いと文句を零しながら、濡れた唇を舌で拭う。
悟は耳まで真っ赤に染めて、舐めしゃぶられた指先を見つめたままだ。
砂糖の甘さにアルコールの苦味。そして鼻を抜ける清涼感。菓子の味も悟のリアクションも、甚爾の期待以上に悪くない成果を得た。
甚爾はそのまま踵を返し、置いていたショッパーを抱え直す。そこでもう一度、悟の様子を伺った。立ち直りは思っていたよりは早かったようで、しかしまだ少しぎこちないまま、渡されたもうひとつの茶封筒を開いているところだった。
「俺はこれをガキ共に届けなきゃなんねえから帰る」
「ああ、うん」
中から出てきた幾つものレシートを机の上に並べて広げながら、悟は適当な相槌を打った。
「そん中に、それのは入ってねえからな」
蓋を閉じ、机の中程で鎮座している箱指さしながら、甚爾は続けた。
「食えねえんなら、そのまま死ぬまで大事に持ってろ」